正しいなんてあやふやを信仰する愚か

ひとりで生きるための懺悔。大人になる虚しさ。

春晴

秒針は透明なドームに衝突す
今朝の生まれたて光景の白
輝くほどに透明なものたち
次々に金継ぎの繊細な稲妻
先触れの夜明けのバイク

もう、取り調べは終わったね
透明なからだで沈んで海底になる
もう、取り調べは終わったね
透明なからだで針水晶にだってなれる
ねえ、つぎの休みに絵をかこう

 

 

はじめて、幸せな詩をかけたと思います。

https://mumyouai.hateblo.jp/entry/2023/08/26/185714

 

取り調べ中

https://mumyouai.hateblo.jp/entry/2022/03/08/234255

UlU

夕焼け色の箱庭の

夕焼け色した羽毛の泉

夕焼け色の方舟の

寂しき色した君のほむら

レースの向こう月光がおりるなら

シーツに溶け波紋をつくるだろう

揺らす空気がころがるなら

あと追う僕はなぞるだろう

 

「神様はいつもみてる」と言う人の

顔はいつも逆光だった

僕をいつもみてたのは

瞼のない君だけだったよ

逆説的に君は僕の神様だろうかと思うことがあった

僕は病気で君は長生きはできなかった

僕がそうあることに少しまた傷つく

君の、僕たちのいのちに期限があると知っていても

 

いつしか君に僕を重ねる

僕の世界はいつも水槽だったし

君にしてたことは僕にしてたこと

僕をみてきたのは

僕をみつづけるのは

死ぬまで一緒だよ

目を逸らせない忘れられない

「                 」

 

 

関連

https://mumyouai.hateblo.jp/entry/2021/07/16/055458

溺夏

あついスープの中、溺れる
ちいさい猫のなき声みたいな 呼吸
沈む神様の様相でいて溺れていた
溺愛と 初めに云った人の感性がすき
不気味な風   不気味な風   不気味な風が
いつも霧に満ちた森の暗い淵に立たせる
ちいさな足音でくるくる回る
回し車が胸の中
『溺夏』20230821

 

夏の中の私の話です。お久しぶりです。

この詩を含んだ8月の私のことを書いていたりしますが、8月中に間に合ったらいいな。次の記事はそれになると思います。

相変わらず、私のブログには実は未だ読者の方が居ないんです。それでも私はたまにこうして「お久しぶりです」なんて言って話してみるんです。

ここを開設する1年ほど前から私の心は活力的には歩けなくなっていました。理由はそれより2年ほど前に受けた大きなストレスをキッカケに、その2年間大丈夫なフリをして、快活なフリをし続けていたからなのかなと思います。そのあと1年ほど這いずるように頑張って、在る日、その私の頑張りが全て報われぬまま私の人生が滅亡する日が訪れました。

その後の1ヶ月は思い出しても自分のことだと思えないような、例えば自販機の横に捨ててある砂っぽくなったペットボトルや、路地裏のネズミのような日を過ごしました。そういう日が落ち着いてきて、私は詩を書いてみるようになり、それを載せるためにここを開設しました。

https://mumyouai.hateblo.jp/entry/2021/04/13/041852

それから2年ほど経ちます。私は私を救うために、悲しくて破裂しそうな気持ちを沢山詩にしました。今は、しあわせな詩をひとつ書いてみたいと思っていますが、今の私にはまだ難しそうです。

じゃじゃば

いつもの調子でぼくは平気で
たまごの殻の薄皮のそれくらいの堤防で
いつも何かは決壊し得る
無意識下のイタズラで
いつも何かは決壊し得る

少し覚めて、少し冷静になって
少し俯瞰してみて、俯瞰して観て
あの壊れそうなぼくを決して忘れないで
敏感さは鈍感になる自己防衛
無意識下のほんとうを不透明にして

何故?こわいのか…?こわいのか...
把握しきれない怪物を
どうして他人に晒せようか
物心ついた頃からの自傷では許されない
きっと全ての栄養素が不足している

誰かの
更地にされた思い出を静かに笑ったことがある
ぼくを
更地にされたとき、ぼくは、ぼくは...
見失った、ゲロを吐いたよ
毎日つねって、泣いているとも知らず
ぼく自身をいたぶった
更地にされたぼくが悪いんだって
( それでも忘れないで、忘れないでいて )
...
あの日が少し遠い日になった
ぼくは、ぼくをみた
そうだ、ぼくは、ぼくは
ぼくは、ころしたくないよ
おまえを、ころしたくないよ
ぼくの中でかがやき続けてよ、これからもずっと...
( ぼくを失くさないで )

無責任なことばばかり
自分勝手なことばばかり
有象無象のことばばかりが上へ下へと飛回る
生者のことばばかりが残り
それはあたかもほんとうとなり
それだけがただほんとうとなり
押寄せる波となりあっという間に
ぼくに納められ、


あーあ、こっそり吐いちゃう

今日のぼそぼそ

寒くておなかがすいて寂しい
昼間の朝の僕は最悪な気持ちだ

いくつかわかったことがあって、
寒さとおかしな睡眠は僕を不安定にする
ついでに空腹までそろうと、泣きだしそうになる
わかっているから最悪の最悪になる


言い訳できない年頃の悪行
根っからのクズの証明
いつからこうなってしまったのかと
先生は思っただろう
僕もそう思う
だから根っからのクズだったんだろうと思う
父親に似た本質が
頭角を現しただけなんだろう
僕は、昔のようにはなれない

性格だって親に似るだろうと云う話
なぜか母は不服そうだった
祖父もまたロクデナシだったからかな
「あんたは誰に似たの?」


バターと、砂糖
それからたまご
小麦粉とこねて
固くないクッキーになれるかな
近く幸せな未来だけがある

確実に、よくわからない様相で
変わってしまった気持ちがある
これも、昔のようにはなれないだろう
夢というにはかけ離れすぎた
だからといって、人生から無くす勇気は無い
まだ、時間が必要だろう
また、自分のために
クッキーをつくるみたいな気持ちで付き合えるために


理解もなく思いやりもなく
捨てられないからひとりで生きられる歳になるまで
理解もなく思いやりもなく
今年も行けなかったね
誰か
まだ他人に希望をみているの ?
勝手に失望して勝手に傷つくの ?
その心配は何に対しての心配か
わかっているのは僕だけ
クチナシの言葉は良いように解釈できるから
貴方だけが味方のようだ
ごめんね

今日の不安定と根っからのクズ
得られない愛と壊れてしまった夢
醜い後悔ばかりいくつもある
クッキーを焼いて、風呂に入って、
全部をごまかして
あたたかく寝て
また明日

 


今ひとついつもの詩みたいなものを書きました。すぐにあげる日もあるけれど、今日のは明日の感性が必要だと思いました。天気がよくて去年の自分が何か書いていてもよさそうだけど、だからといって今日のが気持ちがいい日だから書いた詩ではないのが面白いです。元気がでてきたのでご飯をたべます。

ご飯をたべて、クッキーを焼いて、風呂に入りました。
体調が悪くなって、眠れなくて、明日がきました。

チュリーシー

ボクになってよ チュリーシーチュリーシー
ひるねをやめないで
さかなの骨をすてないで
クッキーなんていわないでよ
こんなにつめたい朝におきて
飴色のなかでお茶をいれようって
あったかい毛布がボクを呑み込んで
きみの声が届かないよ...
...
ボクになってよチュリーシーチュリーシー
ボクをおいてかないで
ボクをわすれないで
ボクをひとりにしないでよ
こんなにつめたい朝にうまれて
むげんのようなよまでのみちを
お湯やママの人肌や電気でごまかして
ボクもういいこでいられないよ...


責任とってよチュリーシーチュリーシー
ボクをきずつけた責任とってよ
ボクだけが泣く責任をとってよ
ボクだけ笑えない責任をとってよ
チュリーシーチュリーシー
ねぇチュリーシーチュリーシー
...
みんなと一緒になって、笑うの?
だれにも問えない責任を
だれも悪くない責任を
そんな透明な責任を
ボクしかみえない透明だから
ボクだけの問題にして
すりつぶして、笑うの?
...
チュリーシーチュリーシー
地中ふかくに隠そうタイムカプセルみたいに
何十年何百年何千年
ずっといっしょでも笑っていられるように
いたくないふりできるように
これからもつづけられるように
チュリーシーチュリーシー
ボクはわすれないよ

 

ボクになってよチュリーシーチュリーシー
ボクの見方になってよ
ボクになってよチュリーシーチュリーシー
返事をしてよ
心配だっていうんなら たすけてよ、チュリーシー

ねぇ

チュリーシーチュリーシー
...ジジジ
チュリーシーチュリーシー
...ジ

九月の夜は

たとえば、
加法混色した光のテープをそこかしこに貼り付け、それもこちらにまで配り散らし、目も当てられないほど強靭な白は空の青を脅かして、その侵食は地上にまでも及ぶ。
全体と比べれば、大して面積を占めてもいないような白はしかし、着実に今、光と熱を以て世界を支配していた。
茹だる8月のこの暑さ、私は逃げるように大衆プールへと来ていた。まるで民族の大移動にでも巻き込まれたかのような流れるプールというのは、それだけ人があるだけに、中々人肌でぬるくなっているようであった。そんなことよりも、支配者に照りつけられることに「もう勘弁」と早々、そのぬるくなった水溜まりに頭から、人と人とを縫うように泳いだ。

その心地良さというと、九月の夜によく似ている。

夕焼けというには、これはあまりにも現実味がない。天に陣取る灯りを見ては、部屋の暗さとの協調にそう思わざるを得なかった。もし、太陽の沈む地平線までに、障害物がないような原始的な立地にいるならば、夜と夕日とを、こんな風に見るのだろうか。何にせよ、私はこれを「夕焼け」としか呼ぶ気はなかった。
田舎の網戸というのはその役目を果たしていない場合が多い。しかし幸いなことに、祖母の家のリビング兼寝室は最近張り替えたらしく、今日こんにちの網戸は安泰であるが、少なくともトイレの網戸などになると小さな虫であればある程度の権利を持っているようであった。その薄い膜を隔てた向こうに、永久的にも思える音がある。秋の趣のような虫の音であるが、いくつ楽器があるか数えようとしたところで、途端に意見の飛び交う無茶苦茶な会議の音に変化してしまった。虫たちの秋会議であった。
まあとにかく、忙しなく続くその音を一晩中聞くことになるのだが、朝になれば姿を消すその音に少しの虚しさを覚えた。
その虫の何重奏の向こうには、疎らに走る車の、エンジンやタイヤと道路との摩擦の音、風を切る車体の音が、忘れた頃に登場とでもいうように、ときたま、現れる。道路を照らす色の悪い薄い青は、LEDだろうか。ヘッドライトの黄金のような橙に白銀のような白い光が、そしてテールランプの赤が容易く想像できて、尾灯が織り成すこの音はいつどんなときでも、眠りを誘うのには充分なのだ。うとうとと朧気であれ、そんな気の無くとも、揺籃を唄うこの音には抗えない。私はいつだって耳をすませば聞こえるような、この遠くに聞こえる車の音が好きだった。まるで、ひとり起きている私がこの世から切り離されるのを繋ぎ止めているような、そんな、切り離されていない、証拠みたいで。
9月の扇風機は、寄り添うようだ。夏の間の友人を春休みに引っ張り出して、プロペラなどを風呂場で洗ったことが思い出として印象深い。「友人?なんだってそんなおかしなことをいうのか。」と思われるかもしれないが、こうやって一晩中ずっと、ずっと、風を切るプロペラと、モーターの音をさせて私のそばに居てくれる。

永遠のような退屈の中にひとり放り込まれて、それを考えて味わって、耐えているうちに、気づけば眠って、朝になって。最後まで寝ているのも私なんだがら、また取り残されたような朝なんだ。

2018/09/22  再掲

 

「カラッポ  秋」▽https://mumyouai.hateblo.jp/entry/2021/06/06/181415

「九月の夜は」の次に書いたものがこの「カラッポ  秋」になります。「九月の夜は」以前の文章というと、今読めるのは山月記のものになりますね。

たぶん、初めて書いたエッセイになるのかな。これを書いた私は青くて生意気で、稚拙だと今の私は赤くなって読みました。けれどこれは私だったし、その証拠みたいに今の私にも確かに「在る」ところがあるんですね。とはいえ、今の私もまだ青くてまだ稚拙で、そんな私でなくなる日は来るのかな。