正しいなんてあやふやを信仰する愚か

ひとりで生きるための懺悔。大人になる虚しさ。

白い小さな花をみた

春の希み遠く花が
芽吹く黄色に立ち退きて
恐るる犬も
庭にさざめく青葉
匂い立つ昼の日の欠片のマゼンタ
透かす血脈は揺れる雪の細胞
オミナエシはなお見ないし
ゆり籠が振り落とす聖母の愛
似通る憤りのニシンによって
蘇生の抜糸は笑われる
早急な上下運動を求め
緩やかな制止をはやし立てる
充実顔のスペクトル
望んだとしても
それは裕福な思い出の幸せにあり
独房の幸せには遠く虚しい

天井の飛行機雲薄まって
カラスがけたたましく鳴く
きらきらしい子どもの声
蒼白な6畳半の幽霊は
寒々しい琥珀に手をとられ
ぬるい羽毛に穿って生きる
責め立てるような秒針や静寂は
犯人呼ばわりする割に人の話を聞かない
人の有る孤独は醜悪な匂いがして
脳が腐ってしまいそうだ
間抜けな鳩みたいになきそうだ
歯抜け面で笑ってしまいそうだ、
人の良さそうな優しい先生に取り入ろうとして
線を引かれた日のような
甘くやさしい果実の匂いがする
恥ずかしくて寂しい日の匂いがする
拗ねた子を慰める手が
喉から出やしないだろうか
全て忘れていいと目を閉じてくれないだろうか
白い部屋の片隅に
白い小さな花をみた





11月後半?くらいから余計気持ちが落ち込んで、散歩にも出歩けないような日が続いて、パニック発作のようなものまで出てきていて、先日やっと診てもらいました。お薬を飲んで半日以上眠ってしまったのですが、その微睡みの中に小学生の頃のひいばあちゃんとの出来事を思い出しました。土曜日、私は父方の祖父母の家によく泊まり行きました。夜ひいばあちゃんの部屋に行くと、真新しい布団と枕を押入れから出して、冷蔵庫にあるヤクルトを飲んだり、自分好みの番組にチャンネルを合わせて、お喋りをしながら一緒にみたりします。ふしぎ発見が終わらないうちにひいばあちゃんは睡眠薬を飲むので、眠りにつく頃になると消灯して、私は夜遅くまでテレビを見て、満足する頃には寝ました。それで思い出した出来事というのは、なぜ忘れていたんだろうと思うようなことなのですが、ひいばあちゃんは睡眠薬を飲むと眠りにつくまで風邪をひいたような低い嗄れた声で、訳の分からないようなことを言い出すのです。知ったひいばあちゃんではないようなそれがどこか不気味で、毎週という程その目に合っていたのに、私が高校生になる頃にはひいばあちゃんも随分と歳をとったので、中学生の頃以来もうあまり足を踏み入れることは少なくなって、それで今まで忘れてしまっていました。今思えば、4歳くらいの私に「しにたい」と話す涙目のひいばあちゃんは強烈に悲しく映っていました。私はだいすきなのに、そんなこといわないでよ、しなないでよ、と思い涙が出ました。それなのに、私がひいばあちゃんのようになってしまいました。いくら泣いても、きっと今のひいばあちゃんは理解できないんだろうと思います。理解してくれないことが、理解しようとしてくれないことが悲しく煩わしく思えます。いつしか私は、自分への理解ばかり求めていて、きっとそれをわけもわからないような愛と計っています。そうしてそれを求めるたび周りの無関心さに心がまっしろけになります。幼い私も掘り返せば罪ばかり作っているように見えますが、私はいつも、幼い頃の純真な自分に顔向けできないような自分に成ってしまったなと思います。
近頃、また少しずつ色々読み始めました。...というより、動画サイトで朗読のお世話になっていると言った方がいいかもしれません。作業するときや、眠るときに聞いたり、少しお勉強したりしています。最近すごく寒いので、あったかくしてくださいね。