正しいなんてあやふやを信仰する愚か

ひとりで生きるための懺悔。大人になる虚しさ。

ぼくはいつもぱくぱくと、まるで金魚のように呼吸をしています。それは文字通りの、身体に酸素を取り込むためのただの呼吸というわけではなく、生きるためのあれこれを取り込んだり、それは全て同意があるわけでなくとも取り込まずにいることは許されない、ぼくのみえる、また、居る世界の状況がありますが、それと生きるためのあれこれを澄ました顔で吐き出したり、それは全て何の不自由なく吐き出せるわけではなく、吐き出すことは許されない、ぼくのみえる、また、居る世界の状況がありますが、まあ、そういうことを指しているのであります。ですのでぼくは常時のこと、まるで金魚のようにぱくぱくと、それは人間ですので、みっともなくそして無様な姿で、これを世界には知られまいと、澄ました顔で、ただし熟した果実のようなものを隠し持って生きているのでありました。

ぼくの澄ました顔が生きているうちの何年かであまりにも精巧なものになってしまい、人はぼくの不要な器用さのみを知ることになったので、そこから生まれる煙草の灯のような理不尽を心臓の上の皮膚で揉み消して、それでもぼくは澄ました顔でいなければなりませんでした。例えばその澄ました顔を崩して、熟れた果実を取り出して見せてみた人もいましたが、ぼくはこの当てつけのようなキャッチボールが果たして正解なのか、よく分かりませんでした。澄ました顔をしていれば上手くいく水面のような世界の住人たちに、突如としてぼくの大切な熟した果実を差し出すには、それは凶暴なまでに純粋な、世界にとっての異質であって、夜闇に寝静まる水槽の電気を音沙汰も無く点灯したときの慌てふためく魚たちのようなその様を見ていると、ぼくが我儘を言っているような、まるで悪い気持ちになりました。

世界は防腐剤を施すこともなく、ぼくが上手になった澄まし顔でケロッと笑ってみせると、それは無かったことになりました。
こうしてやはりぱくぱくと下手な呼吸を繰り返し繰り返し、不器用に器用に、ぼくはそうやって生きていました。けれどそれはぼくの人生の中ではまだマシだったようで、例えば特殊な環境で得た少しばかり大きな理不尽は簡単に果実に爪を立てることができて、特殊な環境の中必要以上に出たアドレナリンによって果実が膿んでいることにすら気づけなかったとすれば、そのときは簡単に病気にかかるでしょう。ジャムになった果実をみて、水槽の魚になるのは今度はぼくの番なんでしょうね。


ある気まぐれに、足は住んでいるところの辺りを少し歩くことに決めました。少しばかりでも、それは本当は大いにぼくに必要なことでありました。雨の降り出しそうな夏の夕暮れの、視界が青く色づいていたことが心が乗った理由だといえましょう。まるで水族館の水槽を前にしているような光景に日常感はなく、朝の早い冬の空気の色のような夏の夕暮れの光景でありました。

いつなんどきも、例えば救急車に搬送されたときでさえ世界を認識するために確かに意識を持っていました。ぼく自身の心を探るため、納得できるまで眠れないことがあるのは僕の悪癖でありますが、ぼくはそれくらいぼくのみえる、また、居る世界を把握することに固執している節がありました。しかしぼくは最近、その認識の不確実さについて考えることがあります。

というのも、例えばぼくの心を夜を削って探るときには気がつくと数時間ばかしが用いられていて、それで解るいくつかのぼくの気持ちはコンディションによってはその後全く参考にならない。もっと現実的なことであげるのなら、確かに記入したぼく自身の返ってきた解答用紙をもって、これは本当にぼくのものなのかと疑ったり、一年ぶりの夏を迎えて広げた服の、妙に縫い合わせてあるところだけを虫が食っているのをみて、昨年ぼくが乱暴に扱った可能性について及んでみたり、もっと簡単な話でいえば消したはずの電気がついていたり、そういうことをもってぼくの思っている以上に、ぼくも他人(ひと)も、ひいては世界というのは、そういったふわふわした意識で成り立っているのではないかと思うと、考え続けることを、理解しようとすることを、生きる上で何よりも重要視してきたぼくにとって、ぼく自身も今踏みしめている地面さえもぐにゃりとして掴めないもののような、意識に伴わず不規則に浮遊しているような心地になって、ぼくとは何だろうかとゾッとすることがあります。

現実味のない青く涼しい夏の夕暮れの、雨の降り出しそうな大きな曇り空の下に吹きつける、不愉快でないばかりの湿気を含んだ風が僕の心臓を掴んでふわふわと揺らして、脳みその頂点からポロポロと不確実な現実を引きずり出して、揺れる視界を、ゾッとするような現実をぼくのことを、揺れる足元を、__________、、




だけどぼくは、その水族館のような冬の朝のような色をした涼しい夏の夕暮れの風の、大気のなかで
そっとひとつ、楽な呼吸をいたしました。
全ての人が敵に見えるけれど、それも不確実なのだと思うと
そっともうひとつ、楽に呼吸をいたしました。



家に入る最後に見たのは、この世界を燃やすみたいに、夕日が空を燃やしている光景でありました。


ぼく自身は可変であります。ぼくは機械ではないので、ぼくの記憶に確実性は保証できません。ぼくのみえる、また、居る世界は、ぼくの推測の範囲を出ない他人(ひと)から成り、それの実体をぼくはやはり推測の範囲でしか知ることはできないでしょう。
それでもぼくは、考え続けようとすることを、理解しようとすることを、少しでもぼくがぼくをすきでいられるために、やめることはできないのです。そして、ぼくの知っているぼくを、こうでもないああでもないと書き換え続けてきた推測を、ぼくだけが知っているこれらを、過程をもってして労ることができるのもまた、ぼくだけなのです。
しかしながら、推測は推測であることも大いに感じておくべきです。そうすることで、呼吸が楽になる瞬間があったことを、忘れないで。