正しいなんてあやふやを信仰する愚か

ひとりで生きるための懺悔。大人になる虚しさ。

九月の夜は

たとえば、
加法混色した光のテープをそこかしこに貼り付け、それもこちらにまで配り散らし、目も当てられないほど強靭な白は空の青を脅かして、その侵食は地上にまでも及ぶ。
全体と比べれば、大して面積を占めてもいないような白はしかし、着実に今、光と熱を以て世界を支配していた。
茹だる8月のこの暑さ、私は逃げるように大衆プールへと来ていた。まるで民族の大移動にでも巻き込まれたかのような流れるプールというのは、それだけ人があるだけに、中々人肌でぬるくなっているようであった。そんなことよりも、支配者に照りつけられることに「もう勘弁」と早々、そのぬるくなった水溜まりに頭から、人と人とを縫うように泳いだ。

その心地良さというと、九月の夜によく似ている。

夕焼けというには、これはあまりにも現実味がない。天に陣取る灯りを見ては、部屋の暗さとの協調にそう思わざるを得なかった。もし、太陽の沈む地平線までに、障害物がないような原始的な立地にいるならば、夜と夕日とを、こんな風に見るのだろうか。何にせよ、私はこれを「夕焼け」としか呼ぶ気はなかった。
田舎の網戸というのはその役目を果たしていない場合が多い。しかし幸いなことに、祖母の家のリビング兼寝室は最近張り替えたらしく、今日こんにちの網戸は安泰であるが、少なくともトイレの網戸などになると小さな虫であればある程度の権利を持っているようであった。その薄い膜を隔てた向こうに、永久的にも思える音がある。秋の趣のような虫の音であるが、いくつ楽器があるか数えようとしたところで、途端に意見の飛び交う無茶苦茶な会議の音に変化してしまった。虫たちの秋会議であった。
まあとにかく、忙しなく続くその音を一晩中聞くことになるのだが、朝になれば姿を消すその音に少しの虚しさを覚えた。
その虫の何重奏の向こうには、疎らに走る車の、エンジンやタイヤと道路との摩擦の音、風を切る車体の音が、忘れた頃に登場とでもいうように、ときたま、現れる。道路を照らす色の悪い薄い青は、LEDだろうか。ヘッドライトの黄金のような橙に白銀のような白い光が、そしてテールランプの赤が容易く想像できて、尾灯が織り成すこの音はいつどんなときでも、眠りを誘うのには充分なのだ。うとうとと朧気であれ、そんな気の無くとも、揺籃を唄うこの音には抗えない。私はいつだって耳をすませば聞こえるような、この遠くに聞こえる車の音が好きだった。まるで、ひとり起きている私がこの世から切り離されるのを繋ぎ止めているような、そんな、切り離されていない、証拠みたいで。
9月の扇風機は、寄り添うようだ。夏の間の友人を春休みに引っ張り出して、プロペラなどを風呂場で洗ったことが思い出として印象深い。「友人?なんだってそんなおかしなことをいうのか。」と思われるかもしれないが、こうやって一晩中ずっと、ずっと、風を切るプロペラと、モーターの音をさせて私のそばに居てくれる。

永遠のような退屈の中にひとり放り込まれて、それを考えて味わって、耐えているうちに、気づけば眠って、朝になって。最後まで寝ているのも私なんだがら、また取り残されたような朝なんだ。

2018/09/22  再掲

 

「カラッポ  秋」▽https://mumyouai.hateblo.jp/entry/2021/06/06/181415

「九月の夜は」の次に書いたものがこの「カラッポ  秋」になります。「九月の夜は」以前の文章というと、今読めるのは山月記のものになりますね。

たぶん、初めて書いたエッセイになるのかな。これを書いた私は青くて生意気で、稚拙だと今の私は赤くなって読みました。けれどこれは私だったし、その証拠みたいに今の私にも確かに「在る」ところがあるんですね。とはいえ、今の私もまだ青くてまだ稚拙で、そんな私でなくなる日は来るのかな。